研究者紹介 – 井原 賢

井原 賢

Masaru Ihara

環境毒性学・健康関連微生物
京都大学工学研究科附属流域圏総合環境質研究センター
特定助教
総合研究大学院大学生命科学研究科博士後期課程基礎生物学専攻を修了。自然科学研究機構 基礎生物学研究所 リサーチフェロー、京都大学大学院工学研究科附属流域圏総合環境質研究センター 研究員を経て、2016年4月より現職。2021年3月K-CONNEX離任。
研究室HP http://ihara-lab.jp/
主要論文
  1. H. Zhang, M.O. Ihara, N. Nakada, H. Tanaka, M. Ihara*, Biological-activity-based prioritization of pharmaceuticals in wastewater for environmental monitoring: G proteincoupled receptor inhibitors. Environmental Science & Technology, 54 (3), 1720-1729 (2020). *corresponding author.
  2. M. Ihara*, S. Hanamoto, M.O. Ihara, H. Zhang, H. Tanaka, Wastewater-derived antagonistic activities of GPCR-acting pharmaceuticals in river water. Journal of Applied Toxicology, 40, 908-917 (2020). *corresponding author.
  3. A. Hata, S. Hanamoto, M. Ihara, Y. Shirasaka, N. Yamashita, H. Tanaka. Comprehensive Study on Enteric Viruses and Indicators in Surface Water in Kyoto, Japan, During 2014-2015 Season. Food and Environmental Virology 10 (4), 353-364 (2018).
  4. H. Zhang, M. Ihara*, S. Hanamoto, N. Nakada, M.D. Jurgens, A.C. Johnson, H. Tanaka, Quantification of Pharmaceutical Related Biological Activity in Effluents from Wastewater Treatment Plants in UK and Japan. Environmental Science & Technology, 52, 11848-11856 (2018). *corresponding author.
  5. M. Ihara*, A. Inoue, S. Hanamoto, H. Zhang, J. Aoki, H. Tanaka, Detection of physiological activities of G proteincoupled receptor-acting pharmaceuticals in wastewater. Environmental Science & Technology, 49, 2625-2638 (2015). *corresponding author.
研究内容

健全な水環境の保全と、水資源の質向上を目指して

かつて、我が国では経済成長に伴う水質汚濁が深刻化して、ヒトや生態系への影響が懸念されるようになり、このような水環境問題を改善するため下水道の整備が進みました。従来の下水処理はBODやSS、窒素、リン、大腸菌群数などの項目の除去を目的としており、その結果、河川や湖沼の水質は大幅に改善しました。しなしながら、近年、下水処理場の処理水から生理活性が高い(=人体に強く作用する)状態の医薬品成分が見つかっています。環境水中に存在する医薬品成分は、どのような影響を生態系に与えるか不明なうえ、残留量の基準や汚染防止の法律はありません。また、薬剤耐性菌やウイルスが国内外の河川などから検出される報告が相次いでいますが、実態はまだまだ十分には調査されていません。こういった問題に注目し、人々の健康や生態系に被害が出る前に対応できるよう研究しています。

図1 下水処理による汚染物質除去と水資源の循環

環境中に医薬品成分流出の恐れ

下水処理場からの処理水は河川へ放流されますが、しばしば、その下流域に浄水場が位置するケースがあり、水道の原水として下水処理水が意図せずに使われてしまうことがあります。また、農地や畜産地からの排水も河川に流れ込んで水道原水に含まれている可能性があります(図1)。人体や生態系への影響が大きい重金属や農薬、ダイオキシン類等の環境汚染物質は環境中での基準値や水道水の基準値が設定され監視対象となっています。その一方で、病院や一般家庭、農地や畜産地から下水として流れ出た水中には医薬品成分が含まれている可能性が大きいものの、生態系への影響の評価は十分になされておらず、水環境中での濃度を規制する法体系も整備されていないのが現状です(表1)。

表1 水環境における汚染物質を規制するための基準と法律

医薬品成分の実態調査

人体や生態系への影響を判断する情報が乏しい環境水中の医薬品成分を測定する方法として、薬理活性を包括的に検出できる簡便なin vitroアッセイをこれまでに導入して実態を調査してきました。具体的には、細胞膜上のGタンパク質連結型受容体(G protein coupled receptor: GPCR)を標的としたGPCR薬の薬理活性を簡単に検出できる in vitro アッセイ「TGFαshedding assay」、およびモノアミントランスポーター阻害薬(抗うつ薬)の薬理活性を簡単に検出できるin vitroアッセイを取り入れています。私は世界で初めて、これらのアッセイを下水や河川水で適用し、GPCR 標的薬の薬理活性を調べました。その結果、高血圧や狭心症、アレルギー性鼻炎などの治療薬、抗うつ薬の成分が見つかりました。さらに、ヒトだけでなくメダカやゼブラフィッシュのGPCRやモノアミントランスポーターも医薬品によって阻害されることを世界で初めて体系的に実験的に確かめました。これらの医薬品は中枢神経系に作用するので、水生生物の行動や繁殖への影響が懸念されます。

低濃度の医薬品成分で異常行動

医薬品由来の成分がどの程度の濃度であれば人体や生態系に影響がないのか。逆に、どのくらいの濃度を越えると危険なのか。定量的に調べる必要があります。そこで、GPCR 標的薬や抗うつ薬といった日本国内で多く処方される医薬品成分が水生生物の行動に与える影響を見るため、魚類の行動を解析する研究者と共同で研究しています。これまで、魚の成長を阻害したり、死に至らしめたりする濃度よりも、ずっと低い濃度で行動異常を引き起こすことが明らかになっています。私は共同研究を通じて、多数のGPCR 標的薬、抗うつ剤について研究を進めて、異常行動を引き起こさない医薬品成分の濃度を見極めることで、下水処理で要求される残留成分の基準を決められると考えています(図2)。また、GPCRやモノアミントランスポーターはミジンコ等の甲殻類でもゲノム上に保存されています。水生生物として魚だけでなく甲殻類も視野に入れ、医薬品が及ぼす影響を解明する研究に取り組んでいます。

図2 下水処理で求められる医薬品削減の提案のイメージ

薬剤耐性遺伝子の拡散にも注目

環境水からは、薬剤耐性菌やウイルスも見つかっています。薬剤耐性菌は他の多くの細菌とともに下水処理過程で除去または不活化(殺菌)されますが、下水処理場には抗生物質がある程度の濃度で恒常的に流入することを考えると、それが選択圧となり、下水処理過程で新たな薬剤耐性菌が生まれる可能性があります。また、下水道では、強い降雨時に下水処理場がオーバーフローする事態をさけるため、下水を処理せずに水域へ放流してしまいます。私は琵琶湖や周辺の下水処理場で細菌やウイルスを長年にわたり調査してきました。培養法や定量PCRによる微生物測定、および次世代シーケンサーを用いたゲノム解析の結果から、琵琶湖で検出される細菌やウイルスは雨天時の下水処理場からの未処理下水の放流と共に濃度が上昇すること、さらに下水処理場からの通常の処理水だけでは説明できず、家畜糞便由来の負荷もあることが示唆されています。

安心できる水環境のために

人の健康や生態系の維持にかかる問題は、被害が顕在化する前の段階で予防的対策を講じるべきです。環境水中の医薬品成分が生態系に及ぼす影響は、分子、細胞、そして個体と様々なレベルで現れます。そのため、環境工学だけではなく、生物学、水産学、分子生物学、薬学、医学といった幅広い分野の研究者と協力して、行政や立法機関が対応策の根拠とできるような科学的エビデンスを積み重ねたいと考えています。